「英語で失敗した私がアメリカ留学までできたのは?」の記事一覧

このブログでは、留学情報のほかに、中学英語で学ぶ表現や単語を用いて「ネイティブ的な発音」を取り上げてきました。主に私がアメリカ留学のための学籍を得るまでの過程やその後の経験などに基づいて記事をご紹介ししています。そこで、この記事では、「英語で大学受験を失敗した私がアメリカ留学までできたのか」についてポイントに合わせてまとめました。「私」について興味を持っていただけると幸いです。

1.英語で大学受験を失敗し、英語の重要性に気が付いていない時期

私は昔の受験制度に組み込まれていた「共通一次試験」の英語で失敗しました。結果、大学受験を失敗しました。一年浪人ののちに大学に進学しましたが、英語の重要性にまだ気が付かない時期が続きます。記事にも書いていますが、英語の重要性に気が付くことができるチャンスは、実は結構転がっているものなのです。でも気が付くことができない。そんな時期でした。

2.英語の重要性に気が付いた瞬間

カナダ・バンクーバーでのホームステイの経験が、私に英語の重要性をようやく気が付かせてくれました。

3.留学を目指し始めた時期

英語の重要性に気が付いた私は、具体的な行動をとり始めます。社会人になってからの経緯をここで述べています。

4.正規留学の選択

大学病院という大きな病院にいても留学の可能性がなくなったので、大学病院を辞めて正規留学の選択をし、英語の準備を始める時期です。

5.アメリカ留学の学籍を得るという目標を達成したことで得た教訓

「目標達成に必要なことは、期限(期日)を設けて目標を決めることである。」

これまので私の人生を振り返り、得られた教訓がこの言葉に集約されています。

Surviveするための戦略

私はこのブログで英語にフォーカスしてお話してきました。

TOEFL iBTの勉強方法や、→中学英語で学ぶ表現を用いてネイティブ的な発音をするためのコツを取り上げてきました。

ここで、なぜ私が英語についてブログを書こうと思ったかを述べるために、自分のこれまでの生き方・人生を振りかえっていきたいと思います。

前回の記事では、「目標達成に必要なことは、期限(期日)を設けて目標を決めることである。」という考えに基づいて、アメリカ留学の第一セメスターを乗り越えたところまでお話ししました。

第二セメスター、第三セメスターともに、一つの授業に対してハンドアウトを3回は目を通すというルーティーン行動を続けました。

第一セメスター内で定期試験が各教科4回実施されました。

このルーティーン行動を続けたおかげで、順調に試験をクリアしていましたが、何度かfail(基準点を下回ること)したことも事実です。

総合得点として基準をクリアしていれば単位は取得できます。

順調に授業を消化していく中で頭をもたげてくる問題がありました。

それは、第三セメスターを修了した後に始まる1年間の応用実務実習です。

実際に医療現場にでて医療職の訓練を積む実習です。

キャンパス内での授業はなんとか対処できたものの、医療現場となると、他の医療職とコミュニケーションをとる必要があります。

患者さんとも話をする必要があります。

英語が聞き取れませんという状況は極力避ける必要がありました。

この状況でも、「期限(期日)を設けて目標を決めることである。」を実践しました。

つまり、「応用実務実習に出るまでにListeningのスキルをあげる」というものでした。

応用実務実習が始まる時期はすでに分かっていますので、その時期から逆算して、どのようにListeningのスキルをあげるかを考えました。

日本でお世話になっていた英会話スクールのインストラクターに相談したところ、オンラインで個人レッスンができるという提案がありました。

これに加えて、Listeningのスキルをあげるのに適したレッスン(コース)があることも提案されました。

この方策をとることを決断し、毎週レッスンをすることをルーティーン行動にしました。

レッスンで取り上げられた内容は、ネイティブがどのように発音しているかを学ぶというものでした。

毎回のレッスンはいつも新鮮でした。

なぜなら、日本にいた時は全く学んだことのない内容だったということと、ネイティブがなぜ単語と単語をリンクさせて発音するのかが分かったからです。

このレッスンのおかげで、Listeningのスキルが向上しました。

応用実務実習にでると、いろんな人種が医療職として働いていますので、インドなまりの英語だったり、アメリカ人らしい英語だったり、スパニッシュなまりの英語だったりと様々な英語に触れる機会となりました。

レッスンで学んだネイティブ的な発音を、実習中に聞き取ることができた瞬間がありました。

“I asked him.”

「アイアスクトゥヒム」と発音するのではなく、「アイアスティム」と発音しているのです。

“asked“[skt]は3つの子音が並んでいますので真ん中の[k]がドロップします。

また、”him”の”h”はドロップします。つまり、

“I ased im”「アイアスティム」

となるのです。

このようなネイティブ的な発音を知ったおかげでずいぶん聞き取りができるようになりました。このような経験があったので、是非みなさんにネイティブ的な発音を知ってほしいと思い、英語についてブログを書きはじめました。

それをまとめた記事は→こちらです。

英語で大学受験を失敗した私がアメリカ留学までできたまでの経緯を何回かにわたり書いてきました。

この一連の私の生き方で培ったもののなかで大きな部分をしめているのは、

「目標達成に必要なのことは、期限(期日)を設けて目標を決めることである。」

という考え方です。

次回からは、「モチベーションをあげるため」にどのような目標を掲げ、どのように期日を設けて、どのように具体的な実践行動に落とし込むかをすこしずつ紹介していきたいと思います。

期限を決めた未来から逆算して実践行動を考えて必ず実践する。

私はこのブログで英語にフォーカスしてお話してきました。

TOEFL iBTの勉強方法や、→中学英語で学ぶ表現を用いてネイティブ的な発音をするためのコツを取り上げてきました。

ここで、なぜ私が英語についてブログを書こうと思ったかを述べるために、自分のこれまでの生き方・人生を振りかえっていきたいと思います。

→前回の記事では、アメリカの医療職大学院への留学が正式に決まったところまでお話ししました。

「目標達成に必要なことは、期限(期日)を設けて目標を決めることである。」

留学先の学籍を得るまでの過程を振り返ると、私の考えはこの言葉に集約されます。

大学病院を辞めて転職し、本格的に英語を勉強し始めた時の当初の目標は、「4浪までがんばる!」でした。

まず1年目。TOEFL CBTのスコアがぎりぎり基準に届かないまま出願しましたので結果は不合格でした。

仕事をしながらの英語の準備を実際してみて、正直なところ大変でした。

よって、2年目で目標を変えました。「今年だめならあきらめる!」

TOEFL iBTに移行した時期でしたので、出願の時期に間に合うようにスコアを取る必要があります。

Speakingのセクションをどうしても攻略する必要があったので、→東京にあるTOEFLに特化した学校に期間限定で通うことを決断しました

その結果、Speakingのセクション30点満点のところ19点取ることができました。私としては満足でした。

Writingのセクションの対策として、→テンプレートを覚えて臨むことにしました

Readingのセクションでは、→各パラグラフの最初の2~3行の内容を優先的に理解するスキルを身に付けてスコアアップさせました

Listeningのセクションでは、→論理的な構成で話される講義の内容を、論理的にノートをとる方法を身に付けてスコアアップさせました。→Shadowingも取り入れました

「今年だめならあきらめる!」つまり、期限を決めた取り組みになりましたので、その期限に間に合わせようと自然と自分の行動が決まっていきます。

期限を決めた未来から逆算して実践行動を考えて必ず実践する。

これが功を奏したと思っています。

留学生活が始まってからの問題は、大学から求められたTOEFL iBTのスコアをクリアできるだけの英語力をつけていても、授業についていくことが簡単ではないということでした。

第一セメスターを無事に終えられる自信が持てませんでした。

そこで、「第一セメスターを乗り越える!」という目標を立て、逆算して実践行動を考えました。

・授業前にはハンドアウトをダウンロードできる環境でしたので、必ずハンドアウトに目を通し、意味が分からない単語は事前に全部調べて、全体の流れを把握する。<1回目>

・授業はすべてボイスレコーダーを用いて録音しながら、集中して授業を聞く。ノートはカタカナで書き落とす。<2回目>

・その日のうちに、録音した授業を聞き直しながら、もう一度ハンドアウトに目を通す。<3回目>

このように、一つの授業に対してハンドアウトに3回は目を通すことをルーティーン行動としました。

おかげで、第一セメスターを乗り越えることができました。

→この話は次回に続きます。

目標達成には、期限(期日)を設けて目標を決める。

私はこのブログで英語にフォーカスしてお話してきました。

TOEFL iBTの勉強方法や、→中学英語で学ぶ表現を用いてネイティブ的な発音をするためのコツを取り上げてきました。

ここで、なぜ私が英語についてブログを書こうと思ったかを述べるために、自分のこれまでの生き方・人生を振りかえっていきたいと思います。

→前回の記事では、大学病院を辞めて改めて正規留学する道を選んだところまでお話ししました。

転職してからは日中は働き、帰宅したら小さな子供二人の世話をして20時くらいまでには寝かせ付け、そのあとはカミさんの貴重な時間なので、カミさんが好きなテレビを見ている横で、TOEFLの勉強をしました。

次の日も仕事がありますので、せいぜい1日2時間くらいの勉強時間です。

当時は、TOEFL CBTが中心でしたが、すこしずつiBTが入り始めた時期でした。

最初は日本語で書かれた本を買って勉強してCBTを受験していました。

定期的に受験の予定をいれました。

受けるごとにスコアは上昇していきましたが、アメリカの医療系大学院が提示するスコアをなかなか超えることができません。

結果、超えることができずに1年が過ぎました。

そうしている間に、TOEFLが完全にiBTに移行してしまいました。

CBTとiBTとでは、評価される英語スキルが異なりますので、勉強方法を変える必要がありました。

iBTでは新たにSpeakingのスキルが試されます。

Reading, Listening, Writingはなんとか自主学習できますが、Speakingは誰かに聞いてもらって、良いか悪いかを知らせてもらわないと改善しないことが容易に想像がつきましたので、近所の英会話スクールにお願いしました。

しかし、インストラクターの先生はネイティブではあるけれど、受験したことがないので細かい指導ができないところが難点でした。

そこで、私は決断しました。

地方都市に住んでいた私は、東京のTOEFLに特化した学校に週末に新幹線で通うことにしました。

このことはこの→ブログの記事に書いています。

→勉強に使う本も英語で書かれたものに変えました。

→使う辞書も英英辞典に変えました。

2年目の取り組みはこのようなことを行って準備しました。

そして、出願の時期に間に合うぎりぎりの日程のiBTで、なんとかスコアを越えることができました。

ぎりぎりの日程でぎりぎりのスコアでした。

この壁を乗り越えるのに2年かかったことになります。

出願の準備の一つに、出身大学の学部長からの推薦書をもらう必要がありました。

卒業してかなり経過していますので、いきなりお願いしても難しいと思われたため、大学病院でお世話になった先生に間に入っていただいてお願いしました。

学部長の先生は快く引き受けていただいたと聞いていました。

出願後、アメリカの大学から面接をするという知らせが届きました。

面接する先生が、ちょうど仕事で東京に来るということでしたので、その日に合わせて新幹線に乗って上京して、新宿のホテルのロビーで会う約束をしました。

面接の日まで、英会話スクールのインストラクターにお願いして模擬面接(mock interview)を3回ほどお願いして準備しました。

面接のときに使ってはいけない表現をこの時学びました。その記事は→こちらをごらんください。

面接の日に実際にお会いすることができ、お話をしました。

大学のプログラムの特徴を聞き、その内容に対する質問をし、約1時間が経過しました。

会話はかみ合っていましたので、とても充実した時間でした。

無事面接を終えて家路につきました。

すごく手ごたえを感じていました。

1時間の面接に耐えうるだけの英語力をつけるのに、仕事をしながらの準備で2年はかかりましたが、気持ちを切らさずに続けてきたことが実った感じがありました。

1か月後、合格の通知が届きました。

正式に留学した時の年齢は38歳になっていました。

つまり、正規留学をしようと決意したのが35歳ということです。

決して若くない年齢でのチャレンジでしたが、この経験を通して一つの考え方が生まれました。

「目標達成に必要なのことは、期限(期日)を設けて目標を決めることである。」

つまり、いつまでに目標を達成するか、そこから逆算して身近な目標を掲げてそれに向けて準備する。

この考え方は留学してからも実践することになります。

この話は次回に続きます

正規留学する道を選ぶ

私はこのブログで英語にフォーカスしてお話してきました。

TOEFL iBTの勉強方法や、→中学英語で学ぶ表現を用いてネイティブ的な発音をするためのコツを取り上げてきました。

ここで、なぜ私が英語についてブログを書こうと思ったかを述べるために、自分のこれまでの生き方・人生を振りかえっていきたいと思います。

→前回の記事では、学部生の時にさぼることを覚えてしまったことが原因で、留学するという希望をあきらめたところまでお話ししました。

粛々と修士課程の研究をこなしながら、医療職として病院で働きたいと考えていたので地元の大学病院の実習を受けに行きました。

当時は2週間という短い期間の実習です。

むしろ研修と表現した方が適切かと思います。

短期間とはいえ、とてもやりがいを感じることができたので、その大学病院に就職することに決めました。

病院にも様々な病院がありますが、中でも大学病院を選んだのは理由があります。

大学病院という大規模病院であれば、正規留学でなくとも、海外の研修にいけるチャンスがあるのではないかと考えたからです。

社会人一年目は仕事を覚えることが最優先になりましたので、英語を学習する時間がほとんど取れませんでした。

それでも、いつかアメリカの医療職の実情を見に行く機会がめぐってくると信じて仕事をしていました。

すると、私の人生に転機がが訪れたのは社会人一年目の秋でした。

卒業した大学の大学病院の先生から、大学に戻って医療職の経験を積まないかという誘いでした。

そして、医療職の経験を積みながら学位の取得を目指そうと言われました。

修士課程に在籍して研究の面白さに気が付き始めたころに地元に就職しましたので、また研究ができるという話は魅力的でした。

私は決断し、お誘いの話を受けることにしました。

社会人二年目からは卒業した大学の大学病院で医療職として働きながら、業務終了後は研究室に行き、研究をする日々を送りました。

毎日23時くらいまで病院にいる生活をしばらく続けていました。

このころは研究に関する英語の論文を読むことをよくしていましたが、それ以外の英語に関する学習は特にしていませんでした。

業務と研究が忙しく、余裕がなかったというのが正直なところでした。

それでも、日々頑張っていれば、いつかアメリカの医療職の実情を見に行く機会がめぐってくると信じていました。

その後数年してから、厚生労働省の海外派遣事業が立ち上がり、科学研究費で日本の医療職がアメリカの医療機関に数カ月研修しに行き、またアメリカから日本の医療職の質向上のために高名な先生方を日本に招聘し、講演を聴くという事業が始まりました。

頑張っていればこのようなチャンスが巡ってくるのだつくづく思ったことを思い出します。

私が在籍した大学病院からは、まず教員職の者が派遣に申請して受理され、一年目の事業で一名、二年目の事業でもう一名派遣されました。

三年目から医療職の者に派遣の話が降りてきました。

無論、私は手を挙げました。職場の先輩も手を挙げました。

結果、先輩を先に派遣することに決まりました。

正直なところ、すごく悔しかったです。翌年は間違いなく自分が行けると信じて、その一年を頑張って仕事をしました。

しかし、神様は意地悪です。

先輩の派遣時に諸々トラブルが生じていたため、次年度は私が在籍した大学病院からは派遣の申請を見送ることが決定されました。

大学病院で頑張っている意味を見失った瞬間でした。

このまま大学病院にいても私の希望は達成されません。

可能性がゼロなのです。私は決断しました。

大学病院を辞めて、改めて正規留学する道を選びました。

英語の勉強の時間が比較的取れる仕事に転職しました。

この時から、本格的な英語の勉強をすることになります。

この話は次回に続きます。

日本にいては刺激できない視野の異なる考え方に触れる

私はこのブログで英語にフォーカスしてお話してきました。

TOEFL iBTの勉強方法や、→中学英語で学ぶ表現を用いてネイティブ的な発音をするためのコツを取り上げてきました。

ここで、なぜ私が英語についてブログを書こうと思ったかを述べるために、自分のこれまでの生き方・人生を振りかえっていきたいと思います。

前回の記事では、大学院修士課程一年次にカナダ・バンクーバーに語学研修に通い始めたところまでお話ししました。

私が所属したクラスは20名くらいでしたが、全員日本人でした。

駅前留学と何ら変わらないと正直思いました。

2週間したら、ドイツ人やフランス人がクラスに入ってきました。

少し異文化を感じることができる環境になりました。

ある日の授業で、「地球が滅亡するとしたら何を一番優先するか?」という問いがネイティブの先生から質問されました。

クラスメートの日本人の多くは、家族・友達・恋人などと答えていましたが、ドイツ人やフランス人のクラスメートは、「神(God)」と答えました。

この瞬間が、私の心に突き刺さることになります。

「国が違うと、こうも考え方が異なるものなのか!」と新鮮で痛烈な感情をもったことを覚えています。

この時の感情は私にとっては非常に強烈なもので、語学研修を終えて日本に帰国してからも、私の心にずっしりと居座りました。

外国人と交流すると、日本にいては刺激できない視野の異なる考え方に触れることができるという貴重な体験が私の心に火をつけました。

それからというもの、海外で学びたいという欲求が日々強くなっていきました。

大学院修士課程の研究に身が入らず、どうにかして海外で学ぶことができないか、または海外で生活することはできないか、日々その方法を模索していました。

それと並行して、地元の英会話スクールに通うことを決めました。

学部生でいたころから、将来は医療職として病院で働きたいと考えていたので、その医療職教育を海外で学ぶことができないか検討し始めました。

すると、アメリカの医療職教育が進んでいることが分かったので、アメリカの大学に留学する方向で情報を集めました。

留学するために必要な資料の一つとしてGPAの提出があります。

大学の学業成績を4段階評価に換算する必要があります。自分の学部生の頃の成績表を引っ張り出して、GPA換算をしたところ、アメリカの医療職の学部が求める最低限のGPAには到底及ばない数字がはじき出されました。

学部生の時にさぼることを覚えてしまったことをこの時ほど後悔したことはありませんでした。

この時点で、留学するという希望をあきらめました。

この話は次回に続きます。

英語で失敗した私がアメリカ留学までできたのは?ー遅刻

私はこのブログで英語にフォーカスしてお話してきました。

TOEFL iBTの勉強方法や、→中学英語で学ぶ表現を用いてネイティブ的な発音をするためのコツを取り上げてきました。

ここで、なぜ私が英語についてブログを書こうと思ったかを述べるために、自分のこれまでの生き方・人生を振りかえっていきたいと思います。

前回の記事では、大学院修士課程一年次にカナダ・バンクーバーに語学研修にいくところまでお話ししました。

ホストマザーの車に乗り、ホームステイする家に向かいました。車の中では当然ですが、英語でのやり取りになります。

何を話したかの記憶ははっきりしないのですが、ちょうどJリーグが発足した年だったので、日本でプロサッカーリーグができたことを話したような記憶があります。

サッカーがカナダでメジャーなのかどうかもわからないですが、とりあえずの日本の情報として話したのだと思います。

ホームステイ先に向かう途中で、語学学校への通い方を確認したいとホストマザーにお願いしたところ、ロンズデール・キーと呼ばれる船着き場まで連れて行ってくれました。

そこから先はSea busに乗って向こう岸に渡り、そこからバスに乗りなさいとのことでした。

結局、語学学校までの道のりや通う時間などはわからずじまいでした。

ノースバンクーバーにあるホームステイ先に着きました。

現地の夕方くらいに家に着いたので、ホストマザーが夕食の準備をしてくれました。

夏ですから、家のコテージにあるテーブルに食事が用意されて、そこで話をしました。ホストマザーが、”Simple dinner!”と言ったのを覚えています。

サンドウィッチが夕食でした。

たしかにシンプルだと思うと同時に、20代前半ですのでおなかがすくのではないかと心配になりました。

初めての英語圏での生活が始まったのですが、なんとか意思の疎通はできることにすこし自信をもったことを覚えています。

時差ぼけが激しかったのと、英語で話すことのちょっとした辛さもあり、早々と自分の部屋に入り、ベッドで眠りました。

翌日、家の近くのバス停からバスに乗り、ロンズデール・キーの船着き場に行き、Sea busに乗り、向こう岸までたどり着きました。

しかし、そこからどう行けば語学学校にいけるか皆目見当がつきません。

ちょうど警察官が2名いたので、語学学校の地図を見せて、ここに行きたいと英語で伝えたところ、何番のバスに乗ればよいということがわかりました。

しかし、乗ったはいいけれど、どこの停留所で降りればいいかがわかりません。

地図を頼りにいまバスがどこら辺を走っているかを見極めながら、風景も頼りにして、あるバス停で降りました。

やはり、語学学校の近くのバス停ではなかったようで、なかなか学校が見当たりません。

方向だけはあっているであろうという感覚でひとりで歩いていました。

30分くらい歩いたでしょうか、偶然にも語学学校の看板が見えました。

なんとかたどり着きましたが、30分以上の遅刻です。

授業は始まっていました。

クラスメートは全員日本人でしたが、すでにみんな自己紹介が終わっていたので、私は遅れたことを詫びて簡単に自己紹介しました。

なんとか語学の研修を始められるようになりました。

この時点では、なんとか英語で用が足せるという実感はありましたが、真に英語を身に付けることの重要性に気が付くにはもう少し時間を要します。

→この話は次回に続きます。

英語で失敗した私がアメリカ留学までできたのは?ーホームステイ

私はこのブログで英語にフォーカスしてお話してきました。

TOEFL iBTの勉強方法や、→中学英語で学ぶ表現を用いてネイティブ的な発音をするためのコツを取り上げてきました。

ここで、なぜ私が英語についてブログを書こうと思ったかを述べるために、自分のこれまでの生き方・人生を振りかえっていきたいと思います。

→前回の記事では、大学四年生になってもまだ英語の重要性に気が付いていないところまでお話ししました。

大学院修士課程一年の夏休みに、4週間のカナダ・バンクーバーへの語学研修に申し込みました。

申し込んだ理由は少し不順で、失恋したところだったこともあり、どこか遠くに行きたいという衝動に駆られていたときでした。

どうせ行くなら、日本を離れたところがいい、できれば長い期間行きたい、お金もあまりかけたくない。

たどり着いた結論は「ホームステイ」でした。

そうと決まれば行動は早い方なので、さっそく大学生協の旅行代理店にいき、パンフレットをあさりました。

アメリカもしくはカナダにしようと思い、どちらがいいか考えました。

しかし、結論は早く出ました。それは、大学時代にアイスホッケーをやっていたからです。

アイスホッケーはカナダの国技です。

「カナダしかないでしょ!!!」くらいな勢いで国をきめましたが、さて、カナダのどの都市にするかが問題でした。

トロント、モントリオール、バンクーバー。

日本から遠いのはトロントまたはモントリオールです。

できるだけ日本から遠いところに行きたいと考えていましたが、予算の関係で、アメリカ大陸にたどり着ければいいと考えが変わり、バンクーバーにしました。

初めての海外です。

飛行機を降りればそこは英語のシャワーです。

不安もありましたが、初めての海外なのでときめきも同じくらいありました。

申し込んでから3カ月後には出発です。

まずは、英会話のCDを購入して耳を慣らそうと考えました。

これまでの人生で、英語を真剣に聞くことがなかったため、まったく聞き取れません。

そりゃそうです。ツアーの担当者からも、ダメもとでもいいから続けてくださいという言葉を励みに真剣に英語を聞く訓練をしました。

成田空港から国際線の飛行機に乗りました。

旅程では、アメリカのサンノゼ国際空港で乗り換えて、バンクーバーに向かうことになっていました。

「果たして乗り換えができるのか?」不安を抱えながら飛行機に揺られていたことを覚えています。

サンノゼ国際空港では、大きめのプラカードのようなものを持った女性が通路に立っていました。

「バンクーバー行はこちら」という内容だったと思いますが、その指示に従って歩を進めると、別の飛行機へ乗るようになっていました。

乗り換えができた瞬間でした。感動しました。

乗り換えができた!その飛行機にのり、2~3時間揺られながらバンクーバーの空港に着きました。

予定では、ホストマザーの方が待っていてくれるはずでした。

果たして会えるのか?同じようにプラカードのようなものをもって手を振っている人が大勢いました。

そのカードにいろんな英語が書かれていたので、一生懸命自分の名前がないか探しました。

なんと、「Nick」と書かれているカードがあるではありませんか!うれしかったです。

ホストマザーの車にスーツケースを載せて、助手席に座りました。ここから英語の世界に入りました。

→この話は次回に続きます。

英語で大学受験を失敗した私がアメリカ留学までできたのは?ー失恋

私はこのブログで英語にフォーカスしてお話してきました。

TOEFL iBTの勉強方法や、→中学英語で学ぶ表現を用いてネイティブ的な発音をするためのコツを取り上げてきました。

ここで、なぜ私が英語についてブログを書こうと思ったかを述べるために、自分のこれまでの生き方・人生を振りかえっていきたいと思います。

→前回の記事では大学受験を失敗したところまでお話ししました。

一年浪人生活をしました。

予備校に通って一から学びなおしました。

現役のときに失敗した英語は特に時間をかけて勉強しました。

今では、リスニングの問題が大学受験の英語に入ってきているようですが、当時の受験制度は、共通一次から大学入試センター試験に変わる時期であり、「読解」に力点を置かれているところに大きな違いはありませんでした。

一年かけたおかげもあると思いますが、第一回の大学入試センター試験の英語は一年前の汚名を返上できるくらいの点数がとれました。

しかし、ほかの教科の全国平均点が軒並み高く、例年のボーダーラインがかなり上がった年になりました。

そのため、二次試験に出願しましたが、一校から足切り(門前払い)にあってしまいました。

残る一校は二次試験の配点が高い大学だったため、受験することはできました。

最終的にこの大学に幸い合格できたので、大学生活を始めることができました。

大学一年の教養課程では第一外国語は英語と決まっています。

ネイティブの先生が教える英語のクラスを履修しました。

英語で書かれたアメリカのペーパーバックの教科書を買った記憶があります。

ネイティブの先生ですので授業はもちろん英語です。

聞いて理解できるレベルでは到底ありませんでしたが、「Ku Klux Klan」(白人至上主義団体)のことを取り上げられていた記憶があるくらいで、英語のスキルを身に付けようという考えはこの時点ではまったくありません。

つまり、英語の重要性にまだ気が付いていない時期ですね。

専門教育が始まる大学三年生になると、有機化学や物理化学の教科書は、英語で書かれているものを指定されました。

どちらも分厚い教科書です。

当時の大学の先生は、将来英語の論文を読むことになるから、今から慣れておく必要があるという理由でこれらの教科書が選定されたと言っていたのを覚えています。

クラスメートは訳本を購入して勉強していました。

親からの仕送りが少ない私としては、訳本を買う余裕がなかったので、これらの教科書を使っていました。

理解していくスピードは遅いのですが、なんとか時間をかければ読むことができ、結構楽しいかもっというのが正直な感想でした。

試験の結果、再試験になることもあれば一発で単位が取れることもありました。

多少英語で勉強することの楽しさを感じた感じですが、この時点ではまだ英語の重要性には気が付いていません。

大学四年生のクリスマスときに失恋をしました。

失恋旅行と称して日本からかなり離れたところに行きたいという思いから、翌年度に大学院修士課程一年の夏休みに、4週間のカナダ・バンクーバーへの語学研修に申し込みました。

この話は次回に続きます。

英語で大学受験を失敗した私がアメリカ留学までできたのは?

私はこのブログで英語にフォーカスしてお話してきました。

TOEFL iBTの勉強方法や、→中学英語で学ぶ表現を用いてネイティブ的な発音をするためのコツを取り上げてきました。

ここで、なぜ私が英語についてブログを書こうと思ったかを述べるために、自分のこれまでの生き方・人生を振りかえっていきたいと思います。

英語を初めて学び始めたのは中学1年生の時です。

ごく普通の中学生として中学教育の一環として学び始めました。

中学1年生の英語はもちろん基礎の基礎を扱います。

友達と一緒に英語のいろはを公立中学校の教室で学びました。

当時は、英語という教科が新鮮で、楽しかったことを覚えています。

みんなと同じように中学英語を積み重ねて、高校に進学します。

当時は受験戦争という言葉がよく用いられていた時代であり、大学受験が大きな関門でした。

高校英語ではグラマーが入ってきました。

より英語というものを深く学ぶようになりました。

当時の受験戦争と言われる時代の英語ですので、いわゆる受験英語を学んでいる状況でした。

すなわち、読解に重点を置かれた教育ですね。

普通の高校生と同じように受験を目指して英語だけでなく、数学、化学、物理を勉強していました(理系志望でした)。

当時の国公立大学の受験には共通一次試験を受ける必要がありました。

大学入試センター試験の前身の共通テストです。

マーク式のテストです。

自分なりに準備して共通一次試験に臨んだつもりでしたが、200点満点の英語の得点が半分に満たなかったのです。

今でも覚えていますが、長文の中に頻回に出てくる”bamboo”の意味が分からず、長文の内容が理解できず、あやふやに答えを選んだことを覚えています。

英語に限らず、ほかの教科も振るわなかったため、浪人が決定しました。

ほかの教科のどういう問題ができなかったかは全く覚えていないのですが、英語の”bamboo”だけはしっかり覚えています。

やはり、英語の得点が思った以上に悪かったことが強い印象として残っていたのでしょう。

大学受験の失敗の原因はほかにもありますが、失敗の一因には間違いなく英語であることは間違いありません。

私としては大きな挫折感を感じました。

予備校生になり、一から学びなおしです。

浪人生活の年から、共通一次試験から大学入試センター試験に変更になることが決まっていました。

浪人したばかりに、二つの受験制度を受けることになりました。

わざわざ二つの受験制度をうけるなんてと、親から嫌味を言われたことを覚えています。

→この話は次回に続きます。